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第3話 あなたを殺す依頼、キャンセルしました!

مؤلف: なつめ
last update تاريخ النشر: 2026-08-24 18:04:48

鉄扉の向こうで靴音が止まり、その直後、金属の取っ手がゆっくり下がった。鵜飼原継真は黒い鞄を抱えたまま、洲脇雛菊の細い背中越しに入口を見据えた。倉庫内には倒れた男たちの呻きと、遠くの港から届く低い機械音しかない。雛菊は銃を構え直し、まるで授業開始の合図を待つ生徒のように静かに呼吸していたが、その右足だけはいつでも踏み込める位置へ半歩引かれていた。

「待て」

継真が低く言うと、雛菊は顔だけを振り向けた。すぐそこまで追っ手が来ているのに、琥珀色の瞳には焦りがない。むしろ次に何をすればいいのか命令を待っているようで、そのことが継真には妙に引っかかった。

「戦う必要はない。逃げられるなら、それでいい」

「え?」

雛菊は本気で意外そうな顔をした。鉄扉の外で誰かが小声で合図し、別の足音が建物の側面へ回っていく。継真にはその音が聞こえているのに、雛菊はなお数秒きょとんとしてから、当然のことを説明するように首を傾げた。

「でも、殺したほうが早いですよ」

「早いかどうかじゃない」

「違うんですか?」

「少なくとも俺は、逃げられる相手まで殺せとは言ってない」

雛菊は黙った。その沈黙は反発ではなく、今まで持っていなかった考え方を頭の中へ置くための時間に見えた。継真は彼女の表情を見ながら、これまで依頼人たちはどういう指示を出してきたのだろうと思う。対象を止めろ、消せ、逃がすな。おそらくそこへ「生かしておけ」という条件が加わることは、ほとんどなかったのだ。

「じゃあ、逃げるんですね」

「できるならな」

「分かりました。継真さんがそうしたいなら」

返事はあっさりしていた。自分のやり方へ固執する様子がないことに、継真はわずかな違和感を覚えたが、考えている余裕はなかった。鉄扉が数センチ開き、外から懐中電灯の白い光が床を舐める。雛菊は継真の袖を掴むと、倉庫の奥へ視線を向けた。

「裏に搬入口があります。鍵はかかってますけど、壊せます」

「音を出すな」

「じゃあ開けます」

言葉の違いが分からないまま雛菊が頷き、二人は積み上げられた木箱の陰を縫って奥へ進んだ。継真は腹部の痛みを庇いながら足を速め、背後から入ってきた人間たちの靴音へ神経を集中させた。少なくとも三人が正面から入り、一人は右側の壁沿いを回っている。さらに外へ残っている人間がいるらしく、離れた場所で車のドアが一度だけ閉まった。

搬入口の脇には古い通用扉があり、錆びた南京錠がぶら下がっていた。雛菊はポケットから細い金属片を取り出し、鍵穴へ差し込む。継真が何をしているのか尋ねる前に、二度ほど小さな音がして錠が外れた。彼女は得意そうに笑いかけたが、継真は人差し指を唇の前へ立て、声を出すなと示した。

外へ出ると、潮と油の混じった冷たい空気が顔へ当たった。倉庫の裏側には古いコンテナが並び、その間を一本の作業路が延びている。照明はところどころ切れており、黒い影が深い。継真はすぐに走り出さず、数秒だけ立ち止まって背後と左右の音を聞いた。

「どうしました?」

雛菊が囁く。

「二手に分かれてる」

「見えました?」

「見てない。音だ」

正面から入った連中の足音は倉庫内部へ散ったが、右へ回った一人はそのまま外周を進んでいる。さらに遠くで小石を踏む音が二度あり、挟むように裏側へ来ている者がいる。継真がそれを説明すると、雛菊は少し目を見開き、それから面白いものを見つけたように彼の横顔を眺めた。

「継真さん、耳いいですね」

「普通だ」

「普通の人はあそこまで分けて聞かないと思います」

「聞こえるものを聞いてるだけだ」

継真は短く返し、コンテナの間を左へ進んだ。歩きながら、先ほどの襲撃を思い返す。最初の男たちは鞄を盾にした瞬間、明らかに動きを止めた。さっき倉庫へ入ろうとしていた追跡者も、継真の姿を見たなら即座に撃てたはずなのに、入口の外で慎重に展開している。雛菊という異常な護衛がいるせいだけではない。彼らは鞄を壊せないのだ。

「雛菊」

「はい」

「俺を見つけても、あいつらすぐ撃たないと思う」

「どうしてです?」

「これだ」

継真は抱えている黒い鞄を軽く持ち上げた。封印された革の表面には、殴られた時についた灰色の埃が残っている。それでも裂け目も傷もなく、中身が何であれ無事だ。

「俺を殺すだけなら、最初の連中ももっと簡単にやれた。車ごと潰すなり、遠くから撃つなりすればいい。それをしなかったのは、これを傷つけたくないからだ」

雛菊は鞄と継真を交互に見た。戦闘のことなら一瞬で判断する少女が、こういう推理になると妙に素直に考え込む。数秒後、納得したように小さく頷いた。

「じゃあ、その鞄を持ってる間は撃たれにくいんですね」

「絶対じゃない。中身を回収できないと判断されたら、俺ごと諦める可能性もある」

「それなら私が全部倒します」

「戻るな」

「はい」

返事だけは素直だった。継真は息を吐き、作業路の先へ視線を向ける。ここから港湾道路へ抜けるには二百メートルほど開けた場所を横切らなければならないが、その前に追いつかれる可能性が高い。足音はすでに倉庫裏へ近づいていた。

継真は周囲を見回した。左手には使われていない資材置き場があり、その中央に錆びた台車が一台置かれている。上には青い防水シートがかけられ、すぐ横の照明だけが生きていた。暗闇からでも目につきやすい。継真は数秒考えたあと、鞄を地面へ下ろした。

「何するんですか?」

「これを置いていく」

「大事なんじゃないんですか」

「大事だから追ってくる」

継真は鞄を持ち上げ、資材置き場へ運んだ。防水シートの端を少しめくり、その下へ隠すのではなく、あえて半分ほど見える位置へ置く。黒い革が照明を受ければ、追跡者ならすぐ気づくはずだった。

雛菊はその様子を見ながら、ますます興味深そうな顔をした。

「取られますよ」

「取らせる」

「でも継真さんを殺したい人たちですよね」

「だから先に鞄を確認する。中身が目的ならなおさらだ」

言い終えるのとほぼ同時に、倉庫裏の角から白い光が一瞬見えた。追跡者の懐中電灯だ。継真は雛菊の腕を引き、反対側のコンテナ陰へ入る。雛菊は引かれた手首を一度見下ろしたが、何も言わず足音を消してついてきた。

二人が数十メートル離れたところで、背後から男の声が聞こえた。

「鞄だ!」

別の足音が急に方向を変える。継真は振り返らなかったが、何人かが資材置き場へ集まったことは分かった。封印を確かめるのか、周囲に罠がないかを見るのか、その場で短い指示が飛び交っている。その数十秒だけ追跡の圧力が消えた。

「走るぞ」

継真が声を落として言うと、雛菊はすぐ隣へ並んだ。二人はコンテナ列の奥を抜け、古いフェンス脇の細道へ入る。途中で継真の腹が痛み、足が一瞬鈍ったが、雛菊は先へ行かず速度を合わせた。助けようと腕を伸ばしかけるたび、継真が自分で走れると示すと素直に引っ込める。その距離の取り方だけは、出会ってまだ一時間にも満たない相手とは思えないほど正確だった。

やがて背後から怒鳴り声が上がった。鞄だけ見つけ、自分たちがいないことへ気づいたのだろう。再び足音が散ったが、すでに距離は稼げている。継真は港湾道路へ直接出ず、古い整備工場と閉鎖されたガソリンスタンドの間を抜け、監視カメラのある大通りまで移動した。

明るい場所へ出たところで、ようやく足を止めた。通りには深夜営業のトラック向け食堂があり、遠くにはコンビニの看板も見える。人目があれば銃撃の危険は少なくなる。継真は自動販売機の横へ背を預け、乱れた呼吸を整えた。

「賢いですね、継真さん」

雛菊はほとんど息を乱していなかった。黒髪の一部が頬へ張りついている程度で、ついさっきまで追われていた人間とは思えない。継真が答えずにいると、彼女は楽しそうに続けた。

「私だったら全員倒して終わらせてました」

「それで全部終わるならな」

「終わらないんですか?」

「今の連中を倒しても、俺の名前を知ってる奴が残る」

継真は自分の社員証へ触れた。主任は自分を送り出し、同行した社員二人は予定通り逃げた。最初に襲ってきた男たちは顔と名前を知っており、さらに別の集団まで同じ場所へ来た。少なくとも一つの会社、一つの現場だけで完結する話ではない。

「冥堂会が絡んでる荷物だとしたら、現場の人間を何人潰しても上が残る。会社へ戻れば、何もなかった顔で別の奴が俺を待ってるかもしれない」

「じゃあ、その上の人も倒せばいいんじゃないですか?」

「何人いると思ってる」

「分かりません。でも順番にやれば」

雛菊は本気だった。継真は横目で彼女を見て、冗談として笑う気にもなれなかった。彼女なら、本当に人数の問題として考えているのだろう。

「俺はそういう方法で生き残りたいわけじゃない」

「どういう方法ならいいんですか?」

「まだ分からない」

継真は正直に答えた。自分を売った会社へ戻る気にはなれず、警察へ駆け込めばすべて解決するとも思えない。黒い鞄を手放したことで一時的には追跡を切れたとしても、顔も名前も知られている以上、危険そのものが消えたわけではなかった。

雛菊は少し考えたあと、継真の隣へ立った。

「じゃあ、分かるまで守ります」

「頼んでない」

「はい。でも私はそうしたいです」

「依頼はどうした」

「キャンセルしました」

その言葉があまりに晴れやかで、継真は返答を失った。つい一時間ほど前まで自分を殺すために待っていた人間が、今は勝手に護衛を名乗ろうとしている。状況の変化が速すぎて、怒るべきなのか呆れるべきなのかさえ決められなかった。

雛菊はそんな継真の反応を気にせず、パーカーの前を整えた。そのとき衣服の内側で何か硬いものが引っかかり、彼女は「あ」と声を上げる。右手を差し入れ、銃とは別のものを取り出した。

「そういえば、これ持ってきました」

継真の目の前へ出されたのは、掌に収まるほどの小さな黒い手帳だった。革張りの表紙には文字も印もなく、角だけがわずかに擦れている。継真は一瞬、何を見せられているのか分からなかった。

「何だ、それ」

「さっきの鞄に入ってました」

「……は?」

「底が二重になってたので」

雛菊は悪びれずに答えた。継真の背筋へ、さっき追われた時とは別の冷たさが走る。

「いつ開けた」

「置いていく前です」

「俺、見てないぞ」

「継真さんが周りを見てたので、その間に」

「封、壊したのか」

「壊してません。横から少し開けました」

説明になっていない。継真は額へ手を当てかけたが、途中でやめた。怒るより先に、この手帳を持ってきた意味を考える必要があった。

「なんで抜いた」

「大事そうだったので」

「大事だから置いたんだろ」

「でも、鞄そのものが大事とは限らないですよね?」

継真は黙った。雛菊は自分の判断が褒められると思っているのか、わずかに期待した顔をしている。確かに、追跡者たちは外側の鞄を確認している間に時間を使った。もし本当に重要なものがその底へ隠されていたのなら、鞄を囮にした作戦は別の意味を持つ。

「見たのか、中」

「開いてません。人の手帳を勝手に読むのはよくないので」

「鞄を勝手に開けるのはいいのか」

「必要だったので」

継真は返す言葉を失った。雛菊の中には確かに規則がある。ただし一般的な基準とは並び方が違うらしい。

手帳を受け取り、街灯の下へ移動する。表紙は使い込まれているが、落とした傷はほとんどない。仕事で何度も持ち運ばれてきたものなのか、革には指の脂が薄く染み込んでいる。継真は親指を表紙の端へかけ、一度だけ周囲を確認してから開いた。

最初のページには、日付らしい数字と、意味の分からない記号が細かく並んでいた。人名も会社名もほとんどなく、英字と数字、丸や三角を組み合わせたような符号が続いている。次のページも、その次も同じだった。だが倉庫で伝票や請求書を見続けてきた継真には、数字の並び方にだけ妙な規則性があることが分かった。

「お金ですか?」

横から覗き込んだ雛菊が尋ねる。

「たぶん」

「分かるんですか?」

「桁の区切り方が似てる。日付みたいな数字の横に毎回同じ位置で並んでるから、金額か数量のどっちかだ」

数百、数千ではない。ゼロの数だけ見れば、何百万、何千万という単位になっている箇所がいくつもある。継真はページをめくる指をゆっくりにし、同じ記号が繰り返されている部分を追った。そこで一行だけ、暗号化されていない日本語が目に入った。

指が止まった。

雛菊も継真の視線を追うように手帳へ顔を寄せる。街灯の白い光の下で、黒いインクだけがやけに鮮明だった。

《冥堂会本部》

継真はしばらく声を出せなかった。会社へ出入りする関連企業の名前として何度か耳にしただけでも、現場の人間たちが声を落とす組織だった。灰戸市の港湾、歓楽街、不動産、警備、物流にまで影を伸ばす巨大な暴力組織。その本部という文字が、何億にも見える数字のすぐ横へ記されている。

「有名なところですか?」

雛菊が尋ねた。

「知らないふりしたほうがいい名前だ」

継真は低く答え、手帳を閉じた。鞄を捨てれば終わるかもしれないという可能性は、その瞬間に完全に消えた。追跡者たちが本当に欲しかったものを、雛菊はわざわざ抜き取って持ってきている。そして今、それを自分が手にしている。

遠くの倉庫街から、微かに車のエンジン音が聞こえた。追っ手が鞄の中身を確かめたのだろうか。もし二重底が空になっていると気づけば、次に探すものは決まっている。継真は黒い手帳を握ったまま雛菊を見た。

「お前、もしかして一番持ってきちゃいけない物を持ってきたんじゃないか」

雛菊は少し考え、それから申し訳なさそうに首を傾げた。

「大事そうだったので」

同じ答えだった。継真はもう一度手帳へ視線を落とし、胸の奥が重く沈んでいくのを感じた。自分が命を狙われた理由は、捨てた鞄の中にはもうない。黒い表紙の内側に収まったまま、今度こそ自分の手の中へ移っていた。

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