تسجيل الدخول鉄扉の向こうで靴音が止まり、その直後、金属の取っ手がゆっくり下がった。鵜飼原継真は黒い鞄を抱えたまま、洲脇雛菊の細い背中越しに入口を見据えた。倉庫内には倒れた男たちの呻きと、遠くの港から届く低い機械音しかない。雛菊は銃を構え直し、まるで授業開始の合図を待つ生徒のように静かに呼吸していたが、その右足だけはいつでも踏み込める位置へ半歩引かれていた。
「待て」
継真が低く言うと、雛菊は顔だけを振り向けた。すぐそこまで追っ手が来ているのに、琥珀色の瞳には焦りがない。むしろ次に何をすればいいのか命令を待っているようで、そのことが継真には妙に引っかかった。
「戦う必要はない。逃げられるなら、それでいい」
「え?」
雛菊は本気で意外そうな顔をした。鉄扉の外で誰かが小声で合図し、別の足音が建物の側面へ回っていく。継真にはその音が聞こえているのに、雛菊はなお数秒きょとんとしてから、当然のことを説明するように首を傾げた。
「でも、殺したほうが早いですよ」
「早いかどうかじゃない」
「違うんですか?」
「少なくとも俺は、逃げられる相手まで殺せとは言ってない」
雛菊は黙った。その沈黙は反発ではなく、今まで持っていなかった考え方を頭の中へ置くための時間に見えた。継真は彼女の表情を見ながら、これまで依頼人たちはどういう指示を出してきたのだろうと思う。対象を止めろ、消せ、逃がすな。おそらくそこへ「生かしておけ」という条件が加わることは、ほとんどなかったのだ。
「じゃあ、逃げるんですね」
「できるならな」
「分かりました。継真さんがそうしたいなら」
返事はあっさりしていた。自分のやり方へ固執する様子がないことに、継真はわずかな違和感を覚えたが、考えている余裕はなかった。鉄扉が数センチ開き、外から懐中電灯の白い光が床を舐める。雛菊は継真の袖を掴むと、倉庫の奥へ視線を向けた。
「裏に搬入口があります。鍵はかかってますけど、壊せます」
「音を出すな」
「じゃあ開けます」
言葉の違いが分からないまま雛菊が頷き、二人は積み上げられた木箱の陰を縫って奥へ進んだ。継真は腹部の痛みを庇いながら足を速め、背後から入ってきた人間たちの靴音へ神経を集中させた。少なくとも三人が正面から入り、一人は右側の壁沿いを回っている。さらに外へ残っている人間がいるらしく、離れた場所で車のドアが一度だけ閉まった。
搬入口の脇には古い通用扉があり、錆びた南京錠がぶら下がっていた。雛菊はポケットから細い金属片を取り出し、鍵穴へ差し込む。継真が何をしているのか尋ねる前に、二度ほど小さな音がして錠が外れた。彼女は得意そうに笑いかけたが、継真は人差し指を唇の前へ立て、声を出すなと示した。
外へ出ると、潮と油の混じった冷たい空気が顔へ当たった。倉庫の裏側には古いコンテナが並び、その間を一本の作業路が延びている。照明はところどころ切れており、黒い影が深い。継真はすぐに走り出さず、数秒だけ立ち止まって背後と左右の音を聞いた。
「どうしました?」
雛菊が囁く。
「二手に分かれてる」
「見えました?」
「見てない。音だ」
正面から入った連中の足音は倉庫内部へ散ったが、右へ回った一人はそのまま外周を進んでいる。さらに遠くで小石を踏む音が二度あり、挟むように裏側へ来ている者がいる。継真がそれを説明すると、雛菊は少し目を見開き、それから面白いものを見つけたように彼の横顔を眺めた。
「継真さん、耳いいですね」
「普通だ」
「普通の人はあそこまで分けて聞かないと思います」
「聞こえるものを聞いてるだけだ」
継真は短く返し、コンテナの間を左へ進んだ。歩きながら、先ほどの襲撃を思い返す。最初の男たちは鞄を盾にした瞬間、明らかに動きを止めた。さっき倉庫へ入ろうとしていた追跡者も、継真の姿を見たなら即座に撃てたはずなのに、入口の外で慎重に展開している。雛菊という異常な護衛がいるせいだけではない。彼らは鞄を壊せないのだ。
「雛菊」
「はい」
「俺を見つけても、あいつらすぐ撃たないと思う」
「どうしてです?」
「これだ」
継真は抱えている黒い鞄を軽く持ち上げた。封印された革の表面には、殴られた時についた灰色の埃が残っている。それでも裂け目も傷もなく、中身が何であれ無事だ。
「俺を殺すだけなら、最初の連中ももっと簡単にやれた。車ごと潰すなり、遠くから撃つなりすればいい。それをしなかったのは、これを傷つけたくないからだ」
雛菊は鞄と継真を交互に見た。戦闘のことなら一瞬で判断する少女が、こういう推理になると妙に素直に考え込む。数秒後、納得したように小さく頷いた。
「じゃあ、その鞄を持ってる間は撃たれにくいんですね」
「絶対じゃない。中身を回収できないと判断されたら、俺ごと諦める可能性もある」
「それなら私が全部倒します」
「戻るな」
「はい」
返事だけは素直だった。継真は息を吐き、作業路の先へ視線を向ける。ここから港湾道路へ抜けるには二百メートルほど開けた場所を横切らなければならないが、その前に追いつかれる可能性が高い。足音はすでに倉庫裏へ近づいていた。
継真は周囲を見回した。左手には使われていない資材置き場があり、その中央に錆びた台車が一台置かれている。上には青い防水シートがかけられ、すぐ横の照明だけが生きていた。暗闇からでも目につきやすい。継真は数秒考えたあと、鞄を地面へ下ろした。
「何するんですか?」
「これを置いていく」
「大事なんじゃないんですか」
「大事だから追ってくる」
継真は鞄を持ち上げ、資材置き場へ運んだ。防水シートの端を少しめくり、その下へ隠すのではなく、あえて半分ほど見える位置へ置く。黒い革が照明を受ければ、追跡者ならすぐ気づくはずだった。
雛菊はその様子を見ながら、ますます興味深そうな顔をした。
「取られますよ」
「取らせる」
「でも継真さんを殺したい人たちですよね」
「だから先に鞄を確認する。中身が目的ならなおさらだ」
言い終えるのとほぼ同時に、倉庫裏の角から白い光が一瞬見えた。追跡者の懐中電灯だ。継真は雛菊の腕を引き、反対側のコンテナ陰へ入る。雛菊は引かれた手首を一度見下ろしたが、何も言わず足音を消してついてきた。
二人が数十メートル離れたところで、背後から男の声が聞こえた。
「鞄だ!」
別の足音が急に方向を変える。継真は振り返らなかったが、何人かが資材置き場へ集まったことは分かった。封印を確かめるのか、周囲に罠がないかを見るのか、その場で短い指示が飛び交っている。その数十秒だけ追跡の圧力が消えた。
「走るぞ」
継真が声を落として言うと、雛菊はすぐ隣へ並んだ。二人はコンテナ列の奥を抜け、古いフェンス脇の細道へ入る。途中で継真の腹が痛み、足が一瞬鈍ったが、雛菊は先へ行かず速度を合わせた。助けようと腕を伸ばしかけるたび、継真が自分で走れると示すと素直に引っ込める。その距離の取り方だけは、出会ってまだ一時間にも満たない相手とは思えないほど正確だった。
やがて背後から怒鳴り声が上がった。鞄だけ見つけ、自分たちがいないことへ気づいたのだろう。再び足音が散ったが、すでに距離は稼げている。継真は港湾道路へ直接出ず、古い整備工場と閉鎖されたガソリンスタンドの間を抜け、監視カメラのある大通りまで移動した。
明るい場所へ出たところで、ようやく足を止めた。通りには深夜営業のトラック向け食堂があり、遠くにはコンビニの看板も見える。人目があれば銃撃の危険は少なくなる。継真は自動販売機の横へ背を預け、乱れた呼吸を整えた。
「賢いですね、継真さん」
雛菊はほとんど息を乱していなかった。黒髪の一部が頬へ張りついている程度で、ついさっきまで追われていた人間とは思えない。継真が答えずにいると、彼女は楽しそうに続けた。
「私だったら全員倒して終わらせてました」
「それで全部終わるならな」
「終わらないんですか?」
「今の連中を倒しても、俺の名前を知ってる奴が残る」
継真は自分の社員証へ触れた。主任は自分を送り出し、同行した社員二人は予定通り逃げた。最初に襲ってきた男たちは顔と名前を知っており、さらに別の集団まで同じ場所へ来た。少なくとも一つの会社、一つの現場だけで完結する話ではない。
「冥堂会が絡んでる荷物だとしたら、現場の人間を何人潰しても上が残る。会社へ戻れば、何もなかった顔で別の奴が俺を待ってるかもしれない」
「じゃあ、その上の人も倒せばいいんじゃないですか?」
「何人いると思ってる」
「分かりません。でも順番にやれば」
雛菊は本気だった。継真は横目で彼女を見て、冗談として笑う気にもなれなかった。彼女なら、本当に人数の問題として考えているのだろう。
「俺はそういう方法で生き残りたいわけじゃない」
「どういう方法ならいいんですか?」
「まだ分からない」
継真は正直に答えた。自分を売った会社へ戻る気にはなれず、警察へ駆け込めばすべて解決するとも思えない。黒い鞄を手放したことで一時的には追跡を切れたとしても、顔も名前も知られている以上、危険そのものが消えたわけではなかった。
雛菊は少し考えたあと、継真の隣へ立った。
「じゃあ、分かるまで守ります」
「頼んでない」
「はい。でも私はそうしたいです」
「依頼はどうした」
「キャンセルしました」
その言葉があまりに晴れやかで、継真は返答を失った。つい一時間ほど前まで自分を殺すために待っていた人間が、今は勝手に護衛を名乗ろうとしている。状況の変化が速すぎて、怒るべきなのか呆れるべきなのかさえ決められなかった。
雛菊はそんな継真の反応を気にせず、パーカーの前を整えた。そのとき衣服の内側で何か硬いものが引っかかり、彼女は「あ」と声を上げる。右手を差し入れ、銃とは別のものを取り出した。
「そういえば、これ持ってきました」
継真の目の前へ出されたのは、掌に収まるほどの小さな黒い手帳だった。革張りの表紙には文字も印もなく、角だけがわずかに擦れている。継真は一瞬、何を見せられているのか分からなかった。
「何だ、それ」
「さっきの鞄に入ってました」
「……は?」
「底が二重になってたので」
雛菊は悪びれずに答えた。継真の背筋へ、さっき追われた時とは別の冷たさが走る。
「いつ開けた」
「置いていく前です」
「俺、見てないぞ」
「継真さんが周りを見てたので、その間に」
「封、壊したのか」
「壊してません。横から少し開けました」
説明になっていない。継真は額へ手を当てかけたが、途中でやめた。怒るより先に、この手帳を持ってきた意味を考える必要があった。
「なんで抜いた」
「大事そうだったので」
「大事だから置いたんだろ」
「でも、鞄そのものが大事とは限らないですよね?」
継真は黙った。雛菊は自分の判断が褒められると思っているのか、わずかに期待した顔をしている。確かに、追跡者たちは外側の鞄を確認している間に時間を使った。もし本当に重要なものがその底へ隠されていたのなら、鞄を囮にした作戦は別の意味を持つ。
「見たのか、中」
「開いてません。人の手帳を勝手に読むのはよくないので」
「鞄を勝手に開けるのはいいのか」
「必要だったので」
継真は返す言葉を失った。雛菊の中には確かに規則がある。ただし一般的な基準とは並び方が違うらしい。
手帳を受け取り、街灯の下へ移動する。表紙は使い込まれているが、落とした傷はほとんどない。仕事で何度も持ち運ばれてきたものなのか、革には指の脂が薄く染み込んでいる。継真は親指を表紙の端へかけ、一度だけ周囲を確認してから開いた。
最初のページには、日付らしい数字と、意味の分からない記号が細かく並んでいた。人名も会社名もほとんどなく、英字と数字、丸や三角を組み合わせたような符号が続いている。次のページも、その次も同じだった。だが倉庫で伝票や請求書を見続けてきた継真には、数字の並び方にだけ妙な規則性があることが分かった。
「お金ですか?」
横から覗き込んだ雛菊が尋ねる。
「たぶん」
「分かるんですか?」
「桁の区切り方が似てる。日付みたいな数字の横に毎回同じ位置で並んでるから、金額か数量のどっちかだ」
数百、数千ではない。ゼロの数だけ見れば、何百万、何千万という単位になっている箇所がいくつもある。継真はページをめくる指をゆっくりにし、同じ記号が繰り返されている部分を追った。そこで一行だけ、暗号化されていない日本語が目に入った。
指が止まった。
雛菊も継真の視線を追うように手帳へ顔を寄せる。街灯の白い光の下で、黒いインクだけがやけに鮮明だった。
《冥堂会本部》
継真はしばらく声を出せなかった。会社へ出入りする関連企業の名前として何度か耳にしただけでも、現場の人間たちが声を落とす組織だった。灰戸市の港湾、歓楽街、不動産、警備、物流にまで影を伸ばす巨大な暴力組織。その本部という文字が、何億にも見える数字のすぐ横へ記されている。
「有名なところですか?」
雛菊が尋ねた。
「知らないふりしたほうがいい名前だ」
継真は低く答え、手帳を閉じた。鞄を捨てれば終わるかもしれないという可能性は、その瞬間に完全に消えた。追跡者たちが本当に欲しかったものを、雛菊はわざわざ抜き取って持ってきている。そして今、それを自分が手にしている。
遠くの倉庫街から、微かに車のエンジン音が聞こえた。追っ手が鞄の中身を確かめたのだろうか。もし二重底が空になっていると気づけば、次に探すものは決まっている。継真は黒い手帳を握ったまま雛菊を見た。
「お前、もしかして一番持ってきちゃいけない物を持ってきたんじゃないか」
雛菊は少し考え、それから申し訳なさそうに首を傾げた。
「大事そうだったので」
同じ答えだった。継真はもう一度手帳へ視線を落とし、胸の奥が重く沈んでいくのを感じた。自分が命を狙われた理由は、捨てた鞄の中にはもうない。黒い表紙の内側に収まったまま、今度こそ自分の手の中へ移っていた。
喫茶店の厨房に積まれていた空の酒瓶が、誰かの肘に触れて小さく鳴った。鵜飼原継真はその音へ振り返る余裕もなく、洲脇雛菊に背を押されながら狭い搬入口を抜けた。正面入口には二人、窓際には一人、さらに裏手へ回った車にも人間がいる。店内へ踏み込んできた男はいたものの、客へ手を出すでも継真をその場で捕らえるでもなく、注文もせず入口付近へ立っただけだった。厨房の店員が不審そうに声をかけたため、その僅かな間を使って継真たちは裏へ回ったが、敵が本気で店内へ突入するつもりなら、そんな時間は与えられなかったはずだった。「継真、本当に悪かった」河芽信人が背後から追ってくる。逃げるように促したのは継真だったが、声にはまだ泣き出しそうな震えが残っていた。「謝るのはあとでいい。お前は店から離れろ」「でも、お前らは」「家族を見張られてるなら、俺と一緒にいるほうが危ない。連絡してきた奴には、俺が裏口から逃げたってそのまま報告しろ」信人は納得できない顔をしたものの、反論する時間はなかった。裏口から出た先は、喫茶店と古い事務所ビルに挟まれた細い通路になっている。ゴミ収集用の箱と室外機が並び、二人並んで走れば肩が擦れる程度の幅しかない。雛菊が先に角を確認し、継真へ小さく手招きした。「今なら行けます」継真は信人へ一度だけ目を向けた。「戻れ。俺と会ったことは隠すな。隠したら向こうに疑われる」「……分かった」「妹さんと母親の写真は消すな。番号も全部残せ」信人が頷くのを確認し、継真は雛菊を追った。数歩進んだところで背後の店内から扉の開く音が聞こえたが、振り返らない。追ってくる足音はすぐにはなかった。そのことが、むしろ気になった。通りを二つ抜け、配送センターの裏手へ続く古い倉庫街へ入ったところで、継真は速度を落とした。雛菊もすぐ合わせて歩き方を変える。右腕にはまだ琴葉から巻かれた包帯があり、走ったせいで制服の袖口から白い端が少し覗いていた。「追ってきませんね」「店の外で待ってた時も同じだった」「同じ?」「信人は俺があそこへ行く時間まで送ってる。相手には、もっと前から準備する時間があった。それなら店の中へ入った瞬間に囲めたはずだ」継真は歩きながら、さっきの配置を頭の中へ並べ直した。正面、側面、裏。車も複数用意されていた。それほど準備しているのに、客がいる店内では襲わず、こちらが
午前九時を過ぎても、配送センター周辺には夜勤明けの匂いが残っていた。大型車の排気と濡れたアスファルト、荷台から漏れる段ボールの乾いた匂いが混じり、鵜飼原継真にはつい昨日までの日常がそのまま続いているように見えた。だが、胸元には黒い手帳があり、少し離れた場所には自分を守ると言い張る殺し屋の少女がいる。見慣れた街並みのほうが、もう自分だけを置き去りにして普通の顔をしているようだった。継真が選んだのは、以前から夜勤明けによく使っていた喫茶店だった。配送センターから歩いて五分ほどの古い店で、入口のガラスには手書きのモーニングメニューが貼られている。昼前には運送会社や整備工場の人間で混むが、この時間なら客はまだ少ない。店内を見渡した継真は、入口と窓の両方を視界へ入れられる奥の席を選び、洲脇雛菊には少し離れたカウンターへ座るよう頼んだ。「隣じゃ駄目ですか?」「お前がいると、信人が余計に警戒する」「私、普通の高校生に見えますよ」「昨日からその言葉を信用できなくなった」雛菊は少し頬を膨らませたものの、素直にカウンターへ移った。制服姿でカフェオレを注文し、メニューに載った厚焼きトーストを真剣に眺めているだけなら、確かに周囲の客から浮いてはいない。けれど鏡張りの柱を使って継真の姿を確認し、一度も完全には視線を外さない。その目の動きを知っている継真には、どれほど自然に座っていても彼女が護衛を続けていることが分かった。河芽信人が現れたのは約束の時刻を六分過ぎた頃だった。二十二歳で、昨年まで同じ配送センターにいた元同僚である。契約終了後に別会社へ移ってからも、ときどき仕事の愚痴を送り合う程度の付き合いは残っていた。普段なら入店した瞬間から手を上げて笑う男なのに、今日は継真を見つけたところで足を止め、まず店内を一周するように見回した。「……生きてたんだな」最初に出た言葉がそれだった。継真は返事を急がず、信人の顔を見た。目の下には寝不足らしい影があり、右手はジャケットのポケットへ入れたまま出てこない。心配していた人間の顔にも見えるが、驚きのほうが強すぎる。「死んだと思ってたのか」「いや、そういう意味じゃなくて。昨日、会社で事故があったって聞いたから」「事故、ね」信人はそこで目を逸らした。店員が水を持ってくると、まだ注文も決めていないのにアイスコーヒーを頼み、グラスへ
後部座席のドアノブがもう一度外側から引かれた。ロックが外れないと分かると、窓へ顔を寄せた男が苛立ったように唇を歪め、「降りろ」と低く言う。鵜飼原継真はその顔を見返しながら、隣の洲脇雛菊へ視線だけを動かした。彼女の右手はバッグの中へ入っていたが、さっき継真が告げた「まだだ」という言葉を守り、銃を抜こうとはしていない。前後を塞ぐ車、歩道を行き交う通勤客、怯えた運転手。ここで一発でも撃てば、相手だけではなく無関係な人間まで巻き込む可能性がある。「まだ殺すな」継真が改めて言うと、雛菊は小さく頷いた。「分かりました」不満は見えなかった。むしろ、どうすれば条件を守ったまま継真を守れるのかを考えているように、琥珀色の瞳だけが静かに男たちの位置を追っている。右側に二人、左側に一人、前方のワゴン付近に二人。上着の内側へ手を入れている者はいるが、まだ銃口は見えない。継真がそこまで確認した瞬間、運転席側の窓を叩いていた男がドアを開け、運転手の肩を掴んだ。「降りろ。巻き込まれたくなきゃな」運転手は青ざめ、シートベルトを外そうとする。継真は止めなかった。ここへ残せば人質に使われる可能性があるし、逃げられるならそのほうがいい。運転手が震える足で外へ出て歩道側へ逃げた直後、後部座席の右側にいた男が窓ガラスを硬い物で叩いた。「雛菊」「はい」「人がいる。銃は最後まで抜くな」「では、手でやります」あまりにも自然な返事に、継真は一瞬だけ言葉を失った。次の瞬間、ガラスに二度目の衝撃が入り、亀裂が走る。雛菊はロックを外して自分からドアを開け、外にいた男の体勢を崩した。相手が想定していなかった方向へ扉が押し出され、膝がわずかに曲がった瞬間、彼女は男の手首を掴んで身体を回し、そのまま路面へ押さえ込む。別の男が背後から腕を振り上げたが、雛菊は振り返るより先に肩を沈めてかわした。肘を相手の脇腹へ入れ、呼吸が止まったところで足を払う。倒れた男の頭が道路へ直接ぶつからないよう襟元を掴んで勢いを殺したことに、継真は遅れて気づいた。いつもの彼女なら、そこまで加減する理由はなかったはずだ。「継真さん、これなら大丈夫ですか?」「確認してる場合か」「大事なので」言いながら、雛菊は三人目の腕を取った。関節を逆方向へ曲げかけたところで一度止まり、何か考えるように手の位置を変える。それから痛みで抵抗で
会社へ向かうには、歩き続けるより車を使ったほうが早い。鵜飼原継真は駅前のロータリーで流しのタクシーを止めると、洲脇雛菊を先に後部座席へ乗せ、自分もその隣へ滑り込んだ。運転手へ物流会社近くの交差点を告げ、会社名そのものは口にしない。濃紺のセダンがまだ遠くからついてくるのをサイドミラーで確認しながら、継真は黒い手帳の入った内ポケットへ無意識に手を当てた。車が大通りへ出ると、雛菊は窓の外へ顔を向けたまま「監視の車、まだいますね」と言った。声は明るいが、視線はガラス越しに後方の流れを拾っている。学校で小テストの点数を気にしていた時とは別の集中が戻っているのに、彼女自身には切り替えた自覚すらないようだった。継真はその横顔を見ながら、昨日から何度も頭へ浮かびながら後回しにしていたことを、ここで決めるしかないと思った。「雛菊」「はい」「護衛の話、ちゃんと決めるぞ」彼女はすぐに継真へ向き直った。琥珀色の瞳がぱっと明るくなり、肩までわずかに弾む。「契約ですね!」「何で嬉しそうなんだ」「継真さんと契約できるんですよね?」「そういう言い方をするな」継真は低く返し、前席の運転手がバックミラー越しに一度だけこちらを見たのを確認した。会話の内容が聞かれて困る状況ではあるが、途中で別の場所へ降りるつもりなので、細部まで理解されなければ問題はない。それより、雛菊が善意だけで自分の前へ立ち続ける今の状態のほうが危険だった。「昨日から、お前は勝手に俺を守るって言ってる」「はい」「そのせいで怪我もした」「かすり傷です」「そこを軽く扱うなってさっき言っただろ」雛菊は包帯の覗く右腕を見て、「そうでした」と素直に頷いた。継真はその反応に軽く息を吐き、言葉を選ぶ。彼女を止めたいわけではない。今この街で自分を守れる人間が必要なのも事実だ。それでも、好きだからという一言だけで命を張られ、その結果を全部雛菊自身の責任にしてしまう形だけは受け入れたくなかった。「好意だけでやらせる気はない。護衛なら条件を決める。俺が頼んだ仕事として、何をするか、どこまでやるか、先に決める」「報酬もですか?」「払える範囲なら」「いりません」即答だった。継真が黙ると、雛菊はむしろ不思議そうに首を傾げる。「昨日も言いましたけど、好きな人を守るのにお金をもらうんですか?」「仕事にするって言ってる」
午前七時を回った頃、鵜飼原継真は駅前のコインロッカーから預けていた荷物を取り出し、スマートフォンの画面をもう一度確認した。《黒い手帳を返せ。午前九時、会社で待つ》。送信元は登録のない番号で、返信しても既読表示すらつかない。主任からは八時までに来いと言われ、別の誰かからは九時を指定されている。会社の中で意思が統一されていないのか、それとも二つの時間を使ってこちらの動きを測ろうとしているのか、まだ判断できなかった。黒い手帳は作業着の内側に入れ、さらに薄いビニール袋へ包んでいる。金額らしき数字と《冥堂会本部》の文字が並ぶものを持ち歩くこと自体が馬鹿げていると分かっていても、置き場所を探している余裕はなかった。会社へ向かう前に人目のある場所でどう動くか考えるつもりだった継真は、隣で制服の襟を整えている洲脇雛菊を見て眉を寄せた。右腕には槙埜琴葉が巻いた白い包帯があり、袖口からわずかに覗いている。「じゃあ、その前に学校へ行きます」雛菊はごく自然に言った。「……何の話だ」「学校です。今日は一限目に数学の小テストがありますので」継真はしばらく返事ができなかった。昨夜から襲撃を二度受け、殺害依頼を破棄したせいで雛菊自身も狙われている可能性があり、九時には黒い手帳を要求する人間が会社で待っている。その状況のどこに小テストを差し込む余地があるのか、頭の中で順番を入れ替えてみても答えは出なかった。「休め」「嫌です」「命を狙われてるんだぞ」「でも欠席すると補習なんです」「補習と命を同じ秤に乗せるな」「補習、放課後に一時間半ありますよ」雛菊は深刻そうに眉を下げた。継真が冗談かどうか見極めようとしても、その表情には本物の嫌悪しかない。「しかも担当が田名部先生なんです。途中式を書かないと全部やり直しなんですよ。答えが合っててもです」「教師として普通だろ」「すごく厳しいです」「殺し屋より怖いのか」「数学の補習は撃って終わらせられませんから」継真はこめかみを押さえた。琴葉から《不死身》と呼ばれている理由を聞いてまだ一時間も経っていない。銃創や刃物傷を負っても仕事へ戻る少女が、補習だけは本気で避けたがっているという事実が、どうにも頭の中で噛み合わなかった。「小テストだけ受けて、すぐ戻ります」「学校に何か持ち込む気じゃないだろうな」「武器ですか?」「他に何が
漫画喫茶の個室に差し込む朝の光は、窓のない店内では時計の表示でしか分からなかった。午前六時四十分。鵜飼原継真は机の上へ伏せていた黒い手帳を鞄代わりのビニール袋へ戻し、長く息を吐いた。眠ったつもりはほとんどないが、二時間ほど記憶が飛んでいる。隣の個室にいるはずの洲脇雛菊へ声をかけようと立ち上がったところで、床に小さな赤黒い点が落ちていることへ気づいた。最初は誰かがこぼした飲み物かと思った。しかし点は個室の入口から廊下へ続き、その先で途切れている。継真はしゃがみ込み、指先を近づけるまでもなく、それが乾きかけた血だと分かった。昨夜、自分は頬を切り、腹を殴られたが、出血するような傷はもうない。視線を上げると、ちょうど隣の扉が開き、雛菊がコンビニの袋を片手に戻ってくるところだった。「おはようございます。継真さん、コーヒー飲めます?」「腕を見せろ」「はい?」雛菊は袋を持ったまま立ち止まった。黒いセーラー服の袖口、その右側だけがわずかに濃い色へ変わっている。継真が近づいて手首を掴むと、彼女は抵抗せず、むしろ何をされるのか興味深そうに見上げた。袖を肘まで捲ると、細い腕の外側に布を裂いたような傷があり、簡単に巻かれたガーゼが赤く染まっていた。「これ、いつやった」「昨日です」「昨日のいつ」「倉庫で最初の人たちと会った時だと思います。たぶん金属片が当たりました」「思います、じゃないだろ」継真は思わず声を低くした。雛菊は叱られた理由が分からないように傷口を見下ろし、それから「ああ」と小さく頷く。自分の身体のことなのに、他人から指摘されて初めて思い出したような態度だった。昨夜から何度も腕を動かし、銃を扱い、走り続けていた。それなのに痛いとも動かしづらいとも、一度も口にしていない。「血、止まってないじゃないか」「減ってますよ。昨日より」「病院行くぞ」「普通の病院はちょっと」「保険証がないとか言うなよ」「あります。でも、この程度で普通の病院へ行くと説明が面倒です」雛菊は笑って答えた。学校へ遅刻した理由を説明したくないという程度の軽さだったが、継真はその笑顔を見ても安心できなかった。銃撃や殴打があった場所で負った傷を、病院でどう説明するつもりなのかという問題は確かにある。それでも、だから放置するという結論へ迷いなく進める感覚は理解できなかった。「じゃあ、どこ







